戦争の語り部 胎内被爆者の平山晃さん

長崎原爆投下の翌日に産まれた胎内被爆者の平山晃さん(77)が自身の体験を若い世代に伝える取り組みを始めた。9日には船橋市内の中高生らと共に長崎市内で開かれた式典に参加した。

画像=体内被爆者の視線で戦争体験を語り継いでいきたいと話す平山さん

「夢に見るけん、もうよかろ」となかなか話したがらなかった父から聞いた原爆が投下された日の話や、目を背けたくなるような内容をどう伝えていくべきか。いつも原稿を書き直していると話す。

平山さんは原爆が投下された1945年8月9日の翌日に出生。屋根がほとんど吹き飛んだ家で産婆さんによって取り上げられたという。自分が被爆者だと意識したのは、中学2年生の頃。アメリカの原爆傷害調査委員会が行う放射線の影響を調べる検査を受け、「まるでモルモットのようだ」と嫌悪感を覚えた。高校生の時、一つ下の後輩が白血病で亡くなった。直接被爆したわけではないのに病気が発症するという事実にがくぜんとした。「親が被爆者だとその子どもに影響がある、自分は将来結婚できるのだろうか」という不安から、長い間自分が被爆者だと打ち明けられなかった。

故郷の同級生らが結婚して子どもも産まれたという話を聞くうちに、不安は薄れていったという。社会人になり、仕事で訪れた船橋で結婚。子どもにも恵まれた。17年「船橋市原爆被爆者の会」に入会。総会に出席してみると、70人ほどの会員のうち、わずか6人しか参加しておらず、皆、自分の体のこともままならない高齢の人ばかり。他の被爆者の心配をしている姿を見て思いが湧いてきた。

語り部として被爆体験を伝えてきた世代が減るなか、「次は自分が活動する段階に入った。実際に戦争を経験したわけではないけど、記憶に残っている悲惨な話を、自分らしく語り継いでいきたい」と力を込める。