「人」船橋の戦争について調査する飛ノ台史跡公園博物館職員 山本稔さん
船橋市は首都圏の中でも第2次世界大戦中の空襲被害が少なった地域。しかし、現存する数少ない資料からは、戦時中の緊迫した様子をうかがい知ることができる――。市内に残る空襲跡などについて独自に調べた成果を、先月、市内の公民館であった考古学講座で発表した。
市役所や町役場などの戦時中資料の多くは焼却、破棄されており、残された物証は貴重。戦後77年を迎え、戦争を語れる世代が少なくなる中、若い世代にも伝えていきたいと話す。
元学校教諭。宮本小に勤務していた時、かつて同校が国民学校だった昭和20年度の「学校日誌」を目にした。そこには空襲中の学校の対応、登下校の様子、時刻などが細かく記されていた。当時は宿直勤務があったため夜間の記録も残されていたという。その正確さから、学校日誌が地域の戦争の歴史を
紐解くのに有用だと考えた。
現在の船橋市域にあった国民学校は10校。各校に残る学校日誌などの資料を照らし合わせながら、当時の社会情勢、船橋の置かれていた状況などの調査を進めている。
終戦前、父・卯太郎さんは鹿児島の海軍基地に従軍していた。そこで整備していた局地戦闘機「雷電」の部品を生産していた工場が、現在自身が勤める同博物館の向かいにあったということに、縁を感じずにいられない。