高根の道標 空襲跡詳細明らかに

第2次世界大戦中、船橋市は首都圏の中でも空襲被害が少なかった地域だが、現在も痕跡を見ることができる。その一つが船橋東高の裏手の高台にある道標(新高根1)。高さ1㍍ほどの石の数カ所にくぼみなどの弾痕があり、船橋の戦争を今に伝える貴重な物証だ。船橋市飛ノ台史跡公園博物館の職員、山本稔さん(66)がこの弾痕を残した空襲を調査し、15日に海神公民館で開催された講座でその詳細を発表した。

画像=海神公民館の考古学講座で研究について紹介する山本さん

高根道標は文久元年(1861年)に高根村の人たちが建てたもので「右大もり道、左さくば道」(右に行けば大森、木下街道の方へ。左に行くとさくば、畑)とある。調査の結果、山本さんはこの弾痕はB29の1945年4月4日の空襲によってできたものと結論付けた。

「千葉市空襲の記録」(千葉市空襲を記録する会発行)によると船橋市内の空襲は11回。被害の多くは家屋の消失。別の記録では死者は1人とある。国内に残る当時の資料が少なく、高根道標の空襲跡についても、これまで詳細はわかっていなかった。

山本さんは元小学校教諭。3・4年生向けの社会科の教材でこの道標の存在を知り、長年興味を持っていた。「軍事資料に基づいて調べれば、この痕跡の状況がわかるのでは」と米軍の任務報告書を入手し、6年ほど前から本格的に調べ始めた。英語の軍事用語や略語を解読するのは難解だったが、国内の研究者や爆弾の専門家から意見を聞くなどして、少しずつ読み進めた。合わせて、学校日誌に残された空襲警報の記載や、県文書館に保管されている被害報告書のほか、高根小などに残る爆弾破片を調べた。

そして、1945年春にあった、500ポンド爆弾による襲撃に着目。船橋上空を通過した可能性のある攻撃を絞り込んだ。当時の空襲のコースや爆弾種、時刻などを総合的に判断した結果、4月4日の2時から3時にかけての空襲であったことを確信した。小泉中島飛行機組立工場(群馬県太田市大泉)を狙った計画の第2目標、または爆弾投棄でできた弾痕と推測する。18機のB29が9千~1万フィートの上空から、雲で地上が全く見えない状況下で投下したこともわかった。

「高根の道標と爆弾破片は船橋の空襲を語れる貴重な物証」と山本さん。戦争の記録、地域の歴史を次世代へ伝えていくためにも守っていくべきだと話す。

現在、市内学校に残されている学校日誌の記述をもとに、船橋市民の戦中の生活について調べているという。