義父の被爆体験語り継ぐ 香澄の西村さんらが朗読会
76年前に広島で被爆し、18年に亡くなった西村利信さん(船橋市・享年87)の手記を朗読する会が、原爆忌の6日、県内で行われた。登壇したのは、習志野市香澄に住む利信さんの長男の妻・西村桂子さん(=写真・52)ら。利信さんの晩年、手記を手渡された桂子さんは、一人の人生を通して戦争を知ってもらおうと活動を続けている。
「機体の股から白バラの花三輪とおぼしきものをふんわりと落とした」「うめき叫ぶ者、水々と欲しがる者、熱さと苦しさに転げ廻る者、『お母さん』と一言叫んで目をつぶる者…」「奇蹟的に私は生き延びたんだ。生き延びたんだ」
旧制広島第二中学校(現・広島観音高校)2年生で14歳の時、爆心地から約2㌔の場所で被爆した利信さん。自宅のあった広島市のモモやミカンのなる情景が「地獄の修羅場」に変わったことを克明に書き残した。
手記は戦後に転居した千葉の高校在籍時に文学クラブの顧問に促され、文芸誌に載せたもの。1949年の執筆当時、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲で新聞などが次々と廃棄されたが、私的で目立たなかった存在だったゆえ後世に残った。
利信さんは、17年春、肺がんステージ4の宣告を受け、医師に「私は被爆者です。一度死んだ命。十分長生きしました」と告げた。桂子さんら家族は「残りの命に光が当たること、父と共有できることはないか」と考え、真新しいノートを渡し「ここに戦争のことを書いて下さい」と頼んだ。「戦争のことを知りたいの?来なさい」。身辺整理を済ませた空の引き出しから出てきたのが、ボロボロの2冊の文芸誌だった。「捨てようと思っていたから持っていくといいよ」
周囲の協力を得て「原爆体験記」として世に出すと反響を呼び、利信さんは「あの戦争がいくつもの心に残り、後に言い伝えられる」と希望を抱いていた、と桂子さん。「胸に押し込めてきた大きな塊が、人々に理解されることで溶けていくようだった」という。
朗読会で、桂子さんは「義父は公開前に文章の一部をカットした」と話した。それは、利信さんの一つ下の弟が亡くなったことだ。桂子さんが「なぜ」と尋ねると、「なんでだろうね、気色が悪い感じがしたんだろうね」と他人事のように話した。また、手記には陸軍中佐の父親の死亡確認証がそのまま書き写されている。
「商工会議所前路上に於て上半身全面を火傷を受けほとんど裸体の状態にて打倒れある」
利信さんは生前、広島を何度も歩き商工会議所前も通ったが、父親が亡くなった場所を知らないと語っていたという。「読み返すことはなかった。それほど耐えられないことだったと思う」と桂子さんは話す。
聴衆は「自分も戦争体験者。当時を伝える文章は贈り物になると感じた」「情景が思い浮かんだ。年配の方から戦争の話を聞くことはあったが、思いが至っていなかった」などと話した。
原爆体験記はインターネット上で全文を公開中。問合せメールkeikofunnytalk@gmail.com