鎌ケ谷市郷土資料館「銃後」の暮らしに焦点
鎌ケ谷市郷土資料館(中央1)で開催中の展示「銃後の鎌ケ谷」は、日中戦争から太平洋戦争下に、鎌ケ谷村で暮らした人々に焦点を当てたものだ。空襲と、供出や配給制による食料不足。言論や行動を規制され、住民同士の監視も厳しかった。少年の「自由日誌」など、初公開の資料を含む約20点が当時の「本音」を伝えている。
画像=手前は自由日誌の少年が20代半ばになって書いた日記。1945年の空襲警報のことや、戦後も食糧難が続いたことなどの記載がある
同資料館が近年に調査した市内の民家から関連資料が大量に見つかり、戦後75年に合わせて企画した。「銃後」とは、戦場の後方にあって支援する場や人を指す。農業が盛んで林が多かった鎌ケ谷村では、コメや木炭の原木などを供出。1938年に制定された国家総動員法、39年の「公私生活を刷新し戦時態勢化するの基本方策」に基づき、40年に村に設置された「委員会」では、各組織の長が出した規制が「個」に浸透し、人々の自由が奪われていった。
言論・行動の厳しい統制
担当学芸員の杉内未央さん(33)は「ささやかな場や祝いの場にも、戦争が影を落としていた様子が見て取れる」と話す。結婚式にかける金額は納税額に応じて定められ、「規定より多く出資した」と密告された男性は「結婚式に関する弁明書」(41年)を書いている。人数の制限、装いの配慮、決して華美な式ではなかったこと…。密告した人も「精神的に苦しい」と考えられる。
特に「食」に厳しい目が向けられた。強いストレス状態の中で、自分が控えている物を他者が口にしないか「監視し合う。どうしても、そうなってしまう不思議」と杉内さんは思いを巡らす。また、市域から戦地に駆り出される人の無事を祈り、出征の旗幟をひらひらさせ見送ることでさえ、質素を重視する考えから「不可」といった意見が生まれた。
垣間見える市民の「本音」
村民は紙に本音を書いていた。当時10代後半の少年の「自由日誌」(39年)には、徴発された馬が検査に通らず帰ってきて、家中騒然とするやらうれしいやらと率直な感情が記されている。また、夏休みは「将来、国のためになるよう」鍛錬する期間とされたが、別の少年はこう書いていたという。「一生懸命あそぼうと思います」。
展示は9月末までを予定。新京成初富駅から徒歩3分。月曜と祝日休館。新型コロナウイルスの影響で展示は小規模で、同館のホームページでも資料を紹介する。