語り継ぐ 亡き被爆者の思い

 

原爆投下から74年。広島で被爆し、昨年亡くなった西村利信さん(船橋市・享年87)の手記を朗読する会が6日、大久保公民館であった。主催は「習志野の小さな風の会」。会の前代表で、同手記の公開を後押しした小野英子さん(享年79)も昨秋に亡くなった。講演会は2人の「追悼」とその思いを後世へ語り継ごうと、残されたメンバーが開いた。

「八時十五分―それは私の腕時計がストップしていた時刻である」―。旧制広島第二中学校(現・広島観音高校)2年生だった利信さんは、爆心地から約2㌔の作業場にいた。「私の背の上に誰かたおれて重なり合ったような衝撃を覚えた。(中略)おおいかぶさっていた人が側面にドタリと落ちて来た。まさに怪物、焼けただれた真赤な全身、顔はふくれ上がって目はつぶれ、唇がニューとはみ出て(中略)うめき叫ぶ者、水々と欲しがる者、熱さと苦しさに転げ廻る者、『お母さん』と一言叫んで目をつぶる者、中でも特に悲惨だったのは、真裸のまま壕の仕事に余念のなかった兵隊である」
やけどを負いながらも自宅に戻ると、同じ学校に通う弟の正照さんと陸軍中佐の父・利美さんが戻っておらず、再び町に出た。大勢の下級生の遺体の間に、虫の息の弟を探し当てたが亡くなった。父は見つからず、9日後に死亡確認証が届いた。

(写真)手記を託された経緯を語る西村桂子さん。後ろの写真は左から利信さん、小野さん、俳優の岡崎弥保さん、央さん

義娘に託された手記
利信さんの長男の妻・桂子さん(50)によると、生前、利信さんが被爆体験を語ることはほぼなかったという。
昨年1月、肺がんを患い自宅にこもりがちになった利信さんに、桂子さんは「義父と私の間に共有できるものは何か」を考えた末、「戦争のことを書いて下さい」と真新しいノートを渡した。「戦争のことを知りたいのか。ちょっと来なさい」。身辺整理を済ませた空っぽの引き出しから出てきたのが古びた2つの冊子だった(=写真)。
そこには、利信さんが千葉高校在籍時に文学クラブの顧問に促され、惨状を克明につづった原爆体験記が載っていた。「捨てようと思っていたから持っていくといいよ」

 

「最期に泣くことができた」
手記は1949年当時、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の厳しい検閲を逃れた貴重なものだった。桂子さんは同会メンバーに相談。これを見た小野さんは「数多くの被爆手記を読んできたが、ここまで詳細に書かれたものは少ない。これを世に出したい」と利信さんに願い出た。利信さんは戸惑いつつも承諾。インターネット上で全文を公開したところ大きな反響を呼んだ。
「義父がかたくなに胸の奥に押し込めていたつらい記憶。たくさんの人が共感してくれたことで大きな塊が溶けていくようだった」と桂子さん。「義父は体験記が公表されたことを本当に喜んでいた。最期に、ようやく、つらかったと泣くことができた」
利信さんは手記の最後にこう記した。「失われた平和を全世界が取りもどすなら、否、永遠の世界平和の一端となるなら世界再建の一資となるなら、落膽の涙、悲運の涙も変じて歓喜の涙、喜びの門出となるであろう。世界は明らかに戦争よりは平和を欲し国民生活の向上を願っている。広島の悲劇をくり返すな」

 

「語り部」後継者 記憶を次世代へ
小野さんも6歳だったあの夏、広島にいた。自宅で母・信子さんとともに被爆。屋外にいた父と姉は助からなかった。父は偶然にも利信さんが通った広島第二中の教師で、投下時、正照さんと同じ場所にいた。
敗戦後、信子さんは、手記を書いた。娘の遺体を見つけた時「注意を払ってくれる人はひとりもいなかった。あまりに大勢の人が死んだので、小さな子どもがひとり死んだところで大した問題ではないのだ」などとつづった。原爆の悲惨さを世界に知らせるため、手記を米国の雑誌「タイム」に送ろうとしたがGHQに阻まれた。その後、信子さんは亡くなり、原爆投下から37年後、小野さんは国連軍縮特別総会で、母の願いをかなえた。
習志野市に移り住んだ小野さんは、地元の小中学校などで「語り部」として活動。記憶を次世代にと、後継者養成にも取り組んでいた。
6日の会で利信さんの手記を朗読した央康子さん(66)は「語り部養成講座」の受講者の1人。「被爆者ではない私にどれほどのことが伝えられるのか」との思いの一方で「誰かがやらないと原爆を知らない人が出てくる」と、引き継いだ資料を使い、平和の尊さを人々に訴えている。